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2006年5月27日 (土)

憲法がつきつける普遍の原則は誰のものか

 憲法は、主権者たる国民が、権力に対してつきつける普遍の原則である。例えば、憲法が保障する基本的人権たる表現の自由は、国家からの自由であり、国家権力が国民の表現の自由を侵してはならないとし、国家権力による検閲を禁止している。思想・良心の自由、学問の自由等々、「これを侵してはならない」「これを保障する」などとされているが、いずれも国家権力に向かって言っている。私も一応法曹のはしくれだから、これは当然のことと考えてきた。

 しかし、この当然のことが、意外と知られていない(理解されていない)ことに最近気がつき始めた。
 水島さんも小森さんも、講演会でそのことに触れておられた。「目からウロコ」と言われたと紹介されていた。実は、私自身も、学習会で、同じような感想に接したことがある。
 そして、水島さんは、護憲団体が掲げる「憲法9条を守る」というスローガンがそもそも間違っている、「憲法9条を守らせる」と言うべきだと提案されていた。

 憲法が国家権力をしばるための規制であるという立憲主義は、憲法を考える時の基本の基本である(トーマス・ジェファーソンの「信頼はいつも専制の親である。自由な政府は、信頼ではなく、猜疑にもとづいて建設せられる」との言葉は、余りにも有名である)。このことが余り理解されていないとすれば、これは、非常にまずいだろうと思う。日本の教育は一体何をしてきたんだろうと思うし、いずれにしても、憲法の存在意義が根本から問われていると感じる。

 この憲法の本質が定着し、この揺るぎなき原則の上に、冷静な議論がなされることこそが今最も求められていることだと思う。国家権力側から、規制を緩めるような内容の改悪案が提案された時、国民は、まず猜疑心をもって、その真意を見抜く必要がある。
 国民が気を緩めれば、その権力を濫用し国民の人権を侵害する本性を持つ国家権力が、その自らに対するしばり=規制を緩める提案をしてきた時、それに対する国民の答えは、「NO」以外に考えられない。

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