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2006年6月

2006年6月27日 (火)

日本国憲法=つぎはぎ憲法論は真っ赤な嘘

 日本国憲法については、押し付け憲法論以外に、「つぎはぎ憲法論」がある。
 あちこちの憲法のつぎはぎで日本の憲法らしくないから日本にふさわしい憲法を作ろうというものである。
 しかし、冷静に考えてみると、この論理は、極めておかしい。
 「つぎはぎ」という言葉が悪いし、正確ではない。

 ここで、池田さんの講演での言葉を若干借用して、池田さん風に表現してみます。
 もし、あなたが、憲法案を作成する住民の代表に選ばれたらどうしますか。選ばれた以上世界一の憲法を作ろうと燃えているあなたはどうしますか。きっと、世界の憲法がどうなっているか調べようとするでしょう。世界一の憲法を作ろうというのですから、まず世界の憲法を知らなければなりません。そして、世界の憲法を調べているうちに、いいところがあれば、自分の憲法案にも使おうとするでしょう。それぞれのいいところを取り入れて憲法案ができあがっていきます。その中には、フランスやドイツの憲法に混じって、日本の明治時代の思想家・植木枝盛や日本国憲法の元になった憲法研究会の憲法草案が含まれているかも知れません。そうやって、自然と「人類共通の理念」に則った憲法ができあがります。
 これを「つぎはぎ」と言うのは、事柄の表面だけを捉えた議論ですし、どこの国の憲法もこうやってできあがってきたことからすれば、「つぎはぎ論」は、真っ赤なウソということになります。

 一見尤もらしい言葉に騙されないようにしよう。

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2006年6月25日 (日)

池田香代子さん講演会

講演会はいいですね

 講演会が大好きになってしまった私は、23日午後6時半、福井市9条の会の主催した池田香代子さんの講演会に出かけてきました。
 まるで会場にいる一人一人に直接話しかけるような池田さんの語り口はとても素敵でした。
 そして、これは、感覚の問題で、私の一方的な思いこみなのですが、池田さんの、あらかじめ用意した言葉ではなく、決して飾らない日常的な言葉を探し、それを拾いながら発しているかのようなお話の仕方が、印象的でした。
 やっぱり、講演会はいいですね。
 とても多くのことを語りかけてもらった気がします。
 なお、池田さんのスケジュールを確認したら、前日の22日は午後9時まで輪島で講演をされ、翌日24日は、河内長野市で午後1時半から講演に行かれたようです。すさまじいスケジュールをこなしていらっしゃるんです。http://www.magazine.co.jp/100people/event/index.jsp

「世界がもし100人の村だったら」

 池田香代子さんと言えば、やはり、「世界がもし100人の村だったら」です。
 池田さんの朗読を直接聞くことができるのですから、これほどの贅沢はありませんでした。バックグラウンドに「死んだ男の残したものは」の演奏を聴きながら。
 改めて、この絵本(民話)にこめられた多くの人の思いが胸に染みました。
 「地球規模で考えろ」とか、世界でごく一部の人間が富を独り占めしながら他方で飢えて死んで行く人がいるとか言われて、ピンと来なくても、世界を100人で考えると「グサッと来ます」。「ある学級通信」と呼ばれて広まっていたメールを見た池田さんは、グサッと来て、これを絵本にしようと考えたのでした。
 池田さんの素晴らしい感性をあらわしています。

イマジンは憲法

 100人の村を音楽であらわしたいと考えた人がいるそうです。
 その1曲目として選ばれたのが、ジョン・レノンのイマジンだそうです。それを池田さんが翻訳したそうですが、それを読んだ若い人が「イマジンって憲法だったんだ」と言ったそうです。
 池田さん風のイマジンの翻訳は、次のとおりです。

 さぁ、想像して。
 国家は何。
 難しくはないはず。
 殺し合う理由がなく、宗教の対立もないということなのだから。
 さぁ、想像して。
 全ての人が平和のうちに生きてある様を。

 会場では、ジョン・バイズの歌うイマジンが流されました。
 素晴らしかったですよ。

憲法が権力者を縛るもののはずなのにウソがいっぱい

 「憲法というのは、権力者を縛るものなんですね。」
 「でも、それがあいまいになって来ている。それをいいことに、ウソがいっぱいある。」
 「ウソは見抜くものだということを申し上げたい。」
 池田さんの言葉は穏やかで語り口も優しいのですが、厳しく、「ウソを見抜こう」とおっしゃいました。本当にそうです。
 私たちは、日本国憲法の制定のいきさつをきちんとたどれば押しつけ憲法論は間違っているとか、憲法は権力者に対する命令であるのだから義務条項を書き込むのは間違っているとか、「誤り」を指摘します。けれど、そういうことを新憲法の提案を行っている自民党などが知らないはずがない。知りながらのこのような提案は、ウソだらけだということでした(もちろん、お話は具体的にウソを指摘)。
 穏やかであっても、しかし、踏み込んだ議論をしていかないといけないと思いました。

微力ではあっても無力ではない

 「私たちは微力ではあっても無力ではない」
 この言葉は、私たち一人一人が憲法と向き合って、なんでもいいから出来ることをやって下さいという池田さんのメッセージと受けとめました。

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2006年6月19日 (月)

アメリカによる押しつけ憲法「改正」

アメリカによる押しつけ憲法論はいずこ?

 自民党などは、日本国憲法がアメリカによる押し付け憲法だから自主憲法を制定するんだということを最近余り言わなくなった。
 何故だろう?
 それは、自民党などが提案しようとしている憲法9条2項の改悪が、アメリカによる押しつけ憲法改悪であるという認識(事実)が徐々に広まり、矛盾した主張はさすがに言いにくくなったと見るのが正しいところだろう。

警察予備隊は何故できた

 そもそも遡れば、自衛隊の前身である「警察予備隊」ができたことからして、日本にあるアメリカ軍基地を守るためだった訳だ。
 この点は、多くの文献が指摘していることなので、いまさらだが、今読んでいる「憲法論文選」(岩波書店)の丸山眞男氏の「憲法第九条をめぐる若干の考察」では、「昭和25年6月の朝鮮戦争勃発直後に、ご承知のように『警察予備隊令』が総司令部の覚え書によって、いわゆるポツダム命令として出た訳であります」と指摘されている(324頁)。

「アーミテージ報告」(2000年10月11日)

 最近の顕著な例がある。
 通常「アーミテージ報告」と呼ばれる「米国防大学国家戦略研究所」(INSS)の特別報告書「米国と日本:成熟したパートナーシップに向けて」は、内政干渉のオンパレードのような文章で、アメリカの本音をかいま見ることができて興味深い。特に、下記の記述は、かなり露骨である。

 日本が集団的自衛権を禁止していることは、同盟間の協力にとって制約となっている。この禁止事項を取り払うことで、より密接で、より効果的な安全保障協力が可能になろう。これは日本国民のみが下せる決定である。

 およそ、独立国に対するメッセージではない。アメリカにとって日本は未だに植民地なのかと思わせる内容である。最後の一文など、当然のことをわざわざ付け加える意味深長な言い回しがいやらしい。
 こういう干渉に対して毅然とした対応をとることができずして独立国と言えるのだろうか。

「九条が日米同盟関係の妨げ」(アーミテージ米国務副長官発言)

 それほど古い話ではないので、覚えている人もいるだろう。 2004年7月21日、国務省でアーミテージ米国務副長官と会談した中川秀直自民党国対委員長が、曝露してしまった。
 アーミテージ米国務副長官が、中川氏に対し、九条が日米同盟関係の妨げになっている」と述べたという。
 当時、新聞に大きく報道された。
 しかも、アーミテージ米国務副長官は、「米国は日本の安保理常任理事国入りを強く支持しているが、常任理事国は国際的な組織の中で軍事力を展開しなければならない役割がある。それができないと常任理事国入りは難しい」とまで踏み込んだというのだから、驚くべきものがあった。
 この発言は、内政干渉であるとの国際世論の批判を受け、その後撤回はされたものの、忘れてはならない象徴的な出来事であった。

「憲法9条は検討されるべきだろう」(パウエル米国務長官発言)

 しかも、その舌の根も乾かないうちに、2004年8月12日、パウエル米国務長官が、日本の記者団に対して、

 米国は日本が安保理の常任理事国になるために支援してきた。日本には憲法9条についてとても強い思い入れがある。日本にとっての重要さと9条がある理由はよく理解している。しかし、同時に日本が国際社会で十分な役割を演じ、安保理でフルに活躍する一員となり、それに伴う義務を担うというのであれば、憲法9条は(現状のままで問題がないかどうか)検討されるべきだろう。

などと述べたというのだから、はっきり言って日本はなめられている。

憲法9条「改正」はアメリカの意思-そうではなく我々日本人一人一人が自分の問題として考える必要がある

 以上は、有名な事件を拾ったに過ぎない。
 しかし、これだけでも、日本の再軍備がアメリカの意思によるもので、憲法9条の「改正」が集団的自衛権の行使を求めるアメリカの要求に基づくものであることはかなりはっきりしているのではないか。
 そして、アメリカの世界戦略をきちんと見据えた場合、アメリカが何故日本の集団的自衛権の行使を求めているのかを理解した上で、日本がどういう立場をとるのかを我々日本人一人一人が真剣に考えなければならないということなのではないだろうか。

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2006年6月14日 (水)

人類普遍の原理

 日本国憲法前文が言及する「人類普遍の原理」。

「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法はかかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。 」

 「人類普遍の原理」と言われても、これまで、当然のこととして、余り深く考えたことがなかった。
 広辞苑には、普遍とは、「宇宙や世界の全体について言えること」とある。原理は、「認識または行為の根本法則」だから、「世界の全体について言える根本法則」という意味になる。
 一国の憲法が、何故、「普遍の原理」=「世界の全体について言える根本法則」を敢えて宣言するのか、そこに何が込められているのか、改めて考えてみる必要があるのではないだろうか。
 普遍の原理という以上、日本国憲法が制定された当時、既に国際的に認められた根本法則が存在したということを意味する。

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「多数」の間違いを正す憲法

 選挙で選ばれた国会議員が国民の意思を反映するとは限らない。
 国会で選ばれた内閣が国民の意思を反映するとは限らない。
 その内閣が選任した裁判官が間違うことだってある。
 多数決で決めれば全て誤りないかと言えば、そうとは限らない。
 憲法は、多数も間違うという前提に立っている。
 憲法の保障する国民の「基本的人権」は、多数決によっても奪われない権利の保障である。

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2006年6月12日 (月)

憲法9条大論争

井上ひさしさんと保岡興治さんの論争

 「通販生活」というカタログ販売誌の昨年夏号に「憲法9条大論争」という特集が掲載されていた。
 井上ひさしさんと保岡興治さんの論争がその内容だ。
 井上さんは、言うまでもなく、「9条の会」の9人のお1人。保岡さんは、自民党憲法調査会会長。
 まさにがっぷり四つの論争。

揺るぎない護憲派と揺るぎない改憲派

 水島朝穂さんの言葉を借りるなら、揺るぎない護憲派と揺るぎない改憲派との論争。平行線に終わるしかない運命か。
 事実、お二人の論議は、平行線のままで終わった。
 しかし、興味深い発言がいくつかあったので、メモしておこうと思う。

押しつけ憲法論はもはや過去の遺物?

 井上さんは、日本国憲法制定経過をかなり詳しく説明し、保岡さんの押しつけ論を批判した。
 そうしたところ、保岡さんは、「いまは単にマッカーサー憲法だったから改正が必要だというふうには考えていません」と応じ、井上さんの示した制定経過について、「与野党共通の認識として共有されていると承知しております」と結論づけた。
 保岡さんの発言が本音かどうかは分からない。自民党の中には、依然として、押しつけ憲法論を唱える人が存在する。
 しかし、最近の憲法改正論自体がアメリカの長年にわたる押しつけであるという認識が拡がる中、自民党が、単純な押しつけ憲法論をとれなくなってきていることだけは確かなようだ。

「日本固有の良き伝統や文化」などが憲法から排除された?

 保岡さんは、単純な押しつけ憲法論はとらないと言いつつ、次のように発言する。

「日本が再び戦争をするような国にならないためにということでしょうが、日本国固有の良き伝統や文化などを一切排除してしまった。天皇制だけは象徴天皇という形で占領政策が遂行しやすいように残しましたが、あとはきれいに入れなかった。この辺りが問題だと思うのです。」
「今の憲法の内容だけ見ると、どこの国の憲法なのかはっきりしない。世界に共通する原理や考え方は非常に多いが、日本の長い歴史、伝統、民族がつくり上げてきたすばらしい精神文化、その中の生きる知恵、お互いに共有しているところの日本人の持つ価値観、こういったものが全くといってよいほど反映されていません。」
「欧米は一神教で合理主義を大切にする国ですが、日本は『よろず神』を大切にしながら、世界の文化を取り入れる多元的文化主義の豊かな精神文化を持っています。そんな私たちの共生の原理を大切にしている国柄を表現する憲法を作るべきだと思っています。」
「常に丸腰で実際に国や平和が守れるでしょうか。だから日本外交で問題を解決する姿勢を大切にして、自衛の軍は他に取りうる方法がつきたときの究極の最後の手段だと思います。現憲法が持っている人類普遍の原理である『平和主義、基本的人権主義、国民主権主義』をそのような意味で充実させ、守るためにも、わが国の伝統である礼節を重んじ、『和』を大切にし、命を慈しみ、平和を愛し、自然のなかに豊かな生活文化を築き自然環境を大切にしてきた日本の国民性と調和する憲法が必要であると思います。」

・・・きりがないので、一旦中止。

感想=余りにも抽象的で空疎な言葉の羅列

 残念ながら、余りにも抽象的で空疎な言葉の羅列だという感想を持ってしまった。
 水島さんや小森さんの話を聞いた時、言葉の一つ一つが膨大な事実の裏付けを持っていること、1時間半という時間的制約がある故に、言葉に膨大な事実を込めて話すしかないんだということを感じ取った。
 しかし、保岡さんの言葉からは、そういうことが感じ取れない。
 そもそも、日本国固有の良き伝統や文化が憲法から排除されたなんてことは、元裁判官の保岡さんに言って欲しくない。「憲法は国家権力の行使を制約する規範」であるという基本を深く理解するならば、伝統や文化を憲法に書き込むという発想に結びつかないはずである。
 それとも、「憲法は国家権力の行使を制約する規範」であるという近代憲法の原則自体を否定しようと考えるのだろうか。それならそうと、はっきりと主張されるべきなのだが、そこまで明確には言っていない。
 保岡さんは、「天皇制だけは・・・残しましたが、あとはきれいに入れなかった」と言うのだから、日本の伝統ということでイメージされるのは、明治憲法時代の日本であるが、まさかそこまでは言わないんだろうと思う。念のために、保岡さんのホームページを見てみたが、やっぱり分からない。
 「『よろず神』を大切にしながら、世界の文化を取り入れる多元的文化主義の豊かな精神文化」と言われても、これではさっぱり分からない。何を指すのかをもっと具体的に説明されるべきだろう。
 ただ、保岡さんのホームページを拝見すると、国民の義務を強調しているから(「権利・自由と表裏一体をなす義務・責任や国の責務についても、共生社会の実現に向けての公と私の役割分担という観点から、新憲法にしっかりと位置づけるべきである。」)、そういった条項を入れ込むことによって、国家権力に対する命令の本質を持つ憲法の改変(国民が守るべき規範の方向)を考えていることだけは間違いないようだ。

憲法に道徳を持ち込むとしたら

 「わが国の伝統である礼節を重んじ、『和』を大切にし、命を慈しみ、平和を愛し、自然のなかに豊かな生活文化を築き自然環境を大切にしてきた日本の国民性」という言葉は、倫理観・道徳観の問題であろう。
 これを憲法に持ち込み、国民が守るべき規範・秩序と位置づけられれば、国家に対する規制という憲法の性格が大きく歪められることになる。

(なお、井上、保岡論争は、日本の軍備をもう一つの柱として鋭く対立した。その点は後日)

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2006年6月10日 (土)

「公民」(中3教科書)

新しい社会「公民」

 この間(6月4日)の話が気になって、手近のところで、中3の子どもの教科書(公民)を見てみた。
 本文201頁のうち憲法に関する記述は37頁(27~64頁)あった。

99条に関する記述は確かにない

 確かに、残念ながら、99条についての直接の記述は見当たらなかった。ただ、99条は当然のことを念のために確認したものだと説明されることもあって、いわゆる憲法の教科書でも余り詳しく触れられていない傾向がある。実質的に触れられているかどうかが問題だ。

しかし憲法が権力に対する命令である点は書いてある

 この教科書には、次のような記述がある。

(前記教科書の抜粋)
 「人権とは、人が生まれながらにしてもっている人間としての権利のことです。人間は、個人として尊重され、自由に生き、安らかな生活を送ることができなければなりません。それを権利として保障したのが人権(基本的人権)です。」
 「人権の保障が宣言されるまでには、人々の長年にわたる努力がありました。国王などの権力者の支配とたたかい、自由を勝ち取っていきました。とくに近代市民革命のときには、『人間は生まれながらに自由と平等の権利をもっている』という思想が、革命を成功させるうえで大きな力になりました。市民革命ののちにつくられた人権宣言や憲法では、人権が保障されました。」
 「日本国憲法は、戦前の天皇主権を否定して国民主権の原理を採用し、人権の保障をいちじるしく強化しています。また、多くの犠牲を出した戦争と戦前の軍国主義の反省にもとづいて、戦争を放棄(憲法第9条)して平和を強く希求しています。」
 「人権の保障は、まず第一に国家に向けられています。国家に対して、個人を尊重して自由な活動や幸福で平和な生活を実現することを要求しているのです。いっぽう、国家は、個人の自由を侵害してはならず、個人の生活を豊かにする政策をおし進めなければなりません。」
 「戦前には、警察官が権力的な捜査活動を行ったり、拷問による取り調べを行ったりすることがありました。そこで、日本国憲法は、犯罪捜査にあたって権力の乱用がないように、被疑者・被告人の権利を保障しました。」
 「・・・、国家が、『この意見はよくない』と決めつけて、意見の発表を禁止したら、民主主義はこわされてしまいます。
 「憲法に義務の規定が少ないのは、憲法が国民の権利を保障する法だからです。」

 この教科書は基本はおさえている。「憲法」が権力に対する命令であるという観点からすると、表現が淡泊であいまいなので、分かり難いことは間違いない。「憲法は国家権力の行使を制約する規範です」ぐらいは言って欲しかった。教科書の記述を補う言葉が必要だろうと思った。
 率直な感想を記述すると、この教科書を使う先生自身が憲法の意義を理解し、言葉で補えば、使えると思った(これが大変なんだろうけど)。

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2006年6月 4日 (日)

「憲法は権力に対する命令である」は中学校で教えられていない?

講演会での出来事

 9条の会の仲間が講演を頼まれて出かけてきたそうだ。
 日曜日だというのに頭が下がる。
 まぁ、それはいいのだが(?)、そこで質問を受けたとのこと。
 「憲法は国民を縛るのではなく国家権力の濫用を防止するためにあること、99条には国民が含まれていないことは、よくわかった。しかし、中学生の教科書には、全く書いていない。なぜだと思うか」と。
 前半は必ずある感想といってもいいが、後半の質問内容はかなり深刻である。

「憲法は、私たち主権者が、ときの政府、ときの権力に対して発する命令です」

 水島さんも、小森さんも触れていた。私自身もそういう感想を受けたことがある。
 多くの人が、「目からウロコだった」と感想をもらすポイント。
 「憲法は、私たち主権者が、ときの政府、ときの権力に対して発する命令です」
 このことをきちんとおさえておかないと、議論が混乱し、命令を受ける立場の権力が、自らを縛っている憲法の枠をとっぱらおうとしているのに、それに気がつかないまま、それを許してしまう。

教育の問題

 憲法の基本の基本とも言うべき原理が、中学生の教科書に書かれていないとは、本当なら深刻である(私が理解していなかっただけか?)

教育基本法前文
 われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。  われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。  ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する。

 教育基本法は、全く実践されて来なかったのか。それとも、いつの時代からか変質させられたのか。後者だと思うが、このあたりは、全くの勉強不足なので、調べてみなければ。

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2006年6月 1日 (木)

池田香代子さん講演会

 水島さん、ネルソンさん、 小森さんと続いた講演会ラッシュからしばらく時間がたち、今度は、同じ県民会館大ホールに池田香代子さんが来てくれるという。福井市9条の会の設立総会のイベントだそうだ。 最近、福井市民は恵まれている。楽しみ。

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