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2006年7月

2006年7月29日 (土)

NHKスペシャル「急増”働く貧困層”」を見て

 7月23日のNHKスペシャル「急増”働く貧困層”」を見た(23日に見損ねたので26日午前0時の再放送)。http://www.nhk.or.jp/special/onair/060723.html
 昔からの仕立屋さん、34歳の若者、秋田県の農家。それぞれ、精一杯働きながら、働きに見合うだけの収入を得ることができないどころか、生活することが不可能と思うしかない収入しか得られない。番組では、このような人たちが今珍しくないと指摘する。3人は、その実態を記録することを希望し、積極的に日常生活を撮ることに協力したそうだ。そのため、極めてリアルに日常生活が映像となっている。
 規制緩和の名の下に、米の価格が下落させられ、農業収入が赤字に追い込まれている農家の実態。同様に、労働現場では、派遣などの不安定雇用の割合が激増し(3人に1人が非正規雇用で働いているとされる)、働く意思・能力を持ちながら労働の機会を得られない若者が増えている。地方は、ますます過疎化が進み、昔からの商業は、商売が成り立たなくなっている。
 消滅しつつある商店街(お金がなくて直せない商店街の看板)、農家(廃屋の建ち並ぶ農村風景)と見てくると、日本の国はどうなってしまうんだろうと強い危惧を持った。
 庶民が支え合って生きてきた地方の風景は徐々に失われて行くのだろうか。企業が効率を求めるのはある意味やむを得ないが、規制緩和を目指すこの国の政府は、効率を求める企業の後押しばかりを続け、真摯に働いても収入を得られない者を切り捨ててきた。
 日本国憲法、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。 」とし、「2  国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」としている(25条)。
 このような実態は、違憲というべきものではないのか。
 一人一人の国民に将来への希望を与えられない国=政府は、存在価値があるのだろうか。
 私らが支払っている税金が、どのような割合で何に使われているのかを1円たりともおろそかにせず真剣に考えなければならないと思った。

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2006年7月28日 (金)

イラク陸自実弾装てんの記事を読んで

 中日新聞のウェブサイト(Cunichi Web Press)にこのような記事が掲載されているのをみつけました。

http://www.chunichi.co.jp/feature/iraq/060719T1253001.shtml

イラク陸自実弾装てん

昨年6月 移動中の襲撃に対応

 昨年6月、イラクに派遣されていた陸上自衛隊の車列近くで爆発があり高機動車が破損した事件で、爆発直後、車列の隊員が銃に実弾を装てんし戦闘態勢を整えていたことが分かった。発砲には至らなかったが“戦地派遣”の危険な現実を示した。14年に及ぶ自衛隊海外派遣で実弾装てんが判明したのは初めて。

 この事件は昨年6月23日、軽装甲機動車で警護された高機動車2台がサマワ市内を通過中に道路右側の遠隔操作爆弾が破裂。高機動車1両のフロントガラスにひびが入り、ドアが破損した。

 複数の防衛庁関係者によると、この襲撃直後に軽装甲機動車の警備隊員らが車載の5・56ミリ機関銃を操作して弾倉から実弾を銃内に送り込み、発射態勢を整えた。

 移動中だった隊員約20人は武器を所持しており、何人が実弾を装てんしたのか判明していないが、犯人が銃などで襲撃していれば、撃ち合いになった可能性がある。

 隊員は宿営地から外出する場合、小銃や拳銃を携行し、車両には機関銃を搭載した。いずれも実弾の入った弾倉を差し込んだ「半装てん」と呼ばれる状態で、このままでは発射できない。発射するには銃を操作して実弾を薬室に送り込む「装てん」の動作が必要になる。

 隊員はイラク特措法によって正当防衛、緊急避難であれば、発砲が認められる。しかし、実弾装てんは武器使用に直結するため、防衛庁は武器使用基準を定め、「緊急事態を除き、指揮官の命令がなければ行ってはならない」と制限していた。

 この事件では指揮官に当たる群長は同行しておらず、関係者は「犯人は車列を待ち伏せ、遠隔操作で爆弾を破裂させている。危険が切迫しており、指揮官の命令がいらない緊急事態に当たる」という。報告を受けた防衛庁は、隊員らの行動を「訓練通りの対応」として問題にしなかった。

                               (2006年7月19日)

 一歩間違えば、自衛隊員が武器を使用せざるを得なかった、戦闘行為に発展したかも知れなかったということなんですね。

 「非戦闘地域」という政府の説明のまやかしには改めて腹立たしい思いです。
 このような自衛隊の置かれた状況がほとんど伝わって来ないのも極めて奇異な感じがします。この記事から明らかなとおり、昨年6月の出来事が今頃になって明らかになったということなのですから。
 そうすると、このような状況が一度だけだったとは、到底思えません。

 現地に行かれた自衛隊員の精神的な重圧はいかばかりだったでしょうか。

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2006年7月23日 (日)

第2次大戦後アメリカはWARはやっていない?(2)ベトナム戦争

ベトナム戦争の発端

 恥ずかしながら、今ごろになって、戦後アメリカの起こした戦争について、勉強している。

 ベトナム戦争について、改めて調べて見ると、アメリカの北ベトナムに対する本格的な攻撃が始まったのは、「トンキン湾事件」がきっかけであり、この際(1964年8月7日)、上下両院で事実上の宣戦布告となる「トンキン湾決議」が可決されている。
 外務省のHPでも、「1964年8月に発生したトンキン湾事件は、米海軍艦艇と北ベトナム海軍魚雷艇の交戦事件で、ベトナム戦争の発端となりました」と書かれている(http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/qa/sengo_04.html)。
 トンキン湾事件がきっかけとなってベトナム戦争が本格化したことは、間違いない。

トンキン湾事件

 トンキン湾事件とは、8月2日にトンキン湾をパトロールしていたアメリカの駆逐艦「マドックス」が、南ベトナム艦艇と間違えられて、北ベトナムの魚雷艇の攻撃を受け(反撃したマドックスの損傷は軽微)、4日にも再度攻撃されたことに対する報復として、アメリカ軍が北ベトナムの爆撃を行ったというものである。
 1964年8月7日には、米上下両院で事実上の宣戦布告となる「トンキン湾決議」が可決され、ジョンソン大統領への戦時大権を承認、アメリカ軍のベトナムに対する本格的介入が始まった。アメリカ連邦議会は、SEATO(東南アジア共同防衛条約)に基づき、当事国を援助するため武力行使を含めた手段をとるように決議した。
 アメリカ国防省は、集団的自衛権の行使であり、空爆は北ベトナムの侵略を阻止するために必要だと説明した。

トンキン湾事件は謀略

 しかし、ニューヨーク・タイムズのニール・シーハン記者が、ペンタゴン・ペーパーズと呼ばれる機密文書(約7000ページ)を入手し、1971年6月13日、トンキン湾事件はアメリカによって仕組まれたものだったことをニューヨーク・タイムズ紙上で暴露した。
 さらに、1995年には、ロバート・マクナマラ国防長官(当時)が、「北ベトナム軍による二度目の攻撃はなかった」ことを著書で暴露した。
 しかも、トンキン湾にいた駆逐艦は、実は北ベトナムの領海を侵犯しており、しかも南ベトナムの軍艦とともに北の行動をスパイする秘密行動に従事していたとも言われている。

ベトナム戦争はWARではなかった?

 そうすると、アメリカは、虚構の事実を創り出してまで、自らの「戦争」を「集団的自衛権」の行使と称して、突き進んでいったということになる。
 WARではないとし、「自衛権の行使」を口実に、ベトナム戦争を本格的に開始したということである。
 「アメリカは第2次大戦後WARはやっていない」というのは、もちろん痛烈な皮肉でもある。

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2006年7月10日 (月)

第2次大戦後アメリカはWARはやっていない?

 「アメリカは、第2次大戦後、WARはやってませんよ」「日本語で考えているだけでは分からないですよ」「自衛軍が侵略戦争をやっているわけですよ」

 小森さんの講演会での忘れられない一連のフレーズである。

 知っている人は知っているのだろうが、私は勉強不足。朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、アフガニスタン侵攻、イラク戦争。アメリカは戦後多くの戦争を行っている。しかし、これらが全部WARではない(もちろん形式的な意味で)のか?

 それなら、これらのWARではない戦争は、どのようにして起こったのだろうか。どうして、日本では一律に「戦争」と訳されているのだろうか。「自衛軍」が「侵略戦争」をやるという矛盾は、何故起きてしまったのだろう。

 疑問はつきないわけで、このあたりは、是非とも研究をしたいと思う分野である。

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2006年7月 3日 (月)

日本国憲法の系譜

日本国憲法の源流-植木枝盛の「東洋大日本国国憲按」

 「思想というものは一旦生まれ落ちたら絶対に死なない。日の目を見なくったって、私たちと一緒に歴史を走って来てくれる。地下水、伏流水のように。この地下水は、チャンスだとみれば、いつでも地表に湧き出てくれます。」 
 これは、先日の講演会での池田香代子さんの言葉です。
 ここで池田香代子さんがおっしゃった「思想」は、明治時代の自由民権運動の理論的指導者であった植木枝盛が起草した「東洋大日本国国憲按」に示された人権思想のことを指しています。

今見ても新鮮な植木枝盛の思想

 「東洋大日本国国憲按」は、220条にも及ぶ詳細なもので、今から見てもその新鮮さは驚くべきものがあります。
 以下は、「第4編 日本国民及日本人民ノ自由権利」(第40~74条)の一部です。集会・結社の自由まできちんと記述されています(全文は、「戦中生まれの女たちによる「九条の会」」(http://home.cilas.net/yunami/9jo.html)が掲載されています)。

第48条 日本人民ハ拷問ヲ加ヘラル丶コトナシ
第49条 日本人民ハ思想ノ自由ヲ有ス
第50条 日本人民ハ如何ナル宗教ヲ信スルモ自由ナリ
第51条 日本人民ハ言語ヲ述フルノ自由権ヲ有ス
第52条 日本人民ハ議論ヲ演フルノ自由権ヲ有ス
第53条 日本人民ハ言語ヲ筆記シ板行シテ之ヲ世ニ公ケニスルノ権ヲ有ス
第54条 日本人民ハ自由ニ集会スルノ権ヲ有ス
第55条 日本人民ハ自由ニ結社スルノ権ヲ有ス

 植木枝盛(1857-1892)の時代は、言うまでもなく、明治憲法(1889年2月11日公布、1890年11月29日施行)が制定される時代。あの時代にここまで徹底した憲法案を起草できたことには、ただただ驚き感嘆するしかありません。しかし、残念ながら、徹底した人権思想によって起草されたこの憲法は、日の目を見ることがありませんでした。

憲法研究会の「憲法草案要綱」、そして日本国憲法に受け継がれた植木の思想

 しかし、植木の思想は、世紀を超えてよみがえりました。日本国憲法の制定の際にGHQが最も参考にした憲法研究会の「憲法草案要綱」は、植木枝盛研究の第一人者であった鈴木安蔵らによって起草されました。植木の思想は、鈴木安蔵を通じ、日本国憲法の中に引き継がれたのです。
 日本国憲法には、我々の先達の瑞々しい人権思想が脈々と受け継がれているという事実の前に感動を覚えます。

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