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2008年4月

2008年4月29日 (火)

映画「靖国」上映会

 私は、映画「靖国」がどのような映画なのか、正直に言えば、知りませんでした。

 しかし、映画を上映するのは、表現の自由であり、その憲法上の重要な権利が、圧力によって侵害されているのだとすれば、そしてその状態が放置されたとすれば、それは、その映画を制作された方々の表現の自由の問題だけにとどまらない由々しき事態だと思います。少しニュアンスは違うのですが、マルチン・ニーメラ牧師の有名な詩を思い出してしまいます。「共産党が弾圧された。私は共産党員ではないので黙っていた。社会党が弾圧された。私は社会党員ではないので黙っていた。組合や学校が閉鎖された。・・・・・」と続く、あの誌です。
 日本国憲法は、「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない」(第12条)としています。憲法上の権利といえど、私たち国民の不断の努力なしには画餅に期すという重要なことを教えてくれています。
 他人事ではありません。

 全国で多くの方々がこの映画の上映会を開催されていますが、福井の地でも、「映画靖国』を観る市民の会・福井」が立ち上がりました。一応、私も、微力ながら、この会の構成団体である「映画『靖国』上映を支える弁護士の会・福井」に入会致しました。

 HPも立ち上がったようです。→http://www.ne.jp/asahi/yasukuniben/fukui/

 池田香代子さんは、福井に来られた際、「私たちは微力ではあっても無力ではない」と教えてくれました。(講演会の様子は前にご報告済

 この池田さんの言葉の重要性を再認識しています。大きな力はいらない、一人一人の小さな力が集まることが大事なのだと思います。

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2008年4月24日 (木)

憲法9条を考える市民のつどい

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  講演会のご案内です。

 知る人ぞ知る伊藤塾塾長伊藤真さんのお話です。

 多くの著作もおありなので、あえてご紹介するまでもないかも知れないのですが、ネット上では、「法学館憲法研究所」の所長として、あるいは、「マガジン9条」の「伊藤真のけんぽう手習い塾」で分かりやすい憲法の考え方を発信されています。

 分かりやすい憲法の理念の説明から、「目からウロコ」がたくさんあるかも。

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2008年4月20日 (日)

名古屋高裁判決と平和的生存権

 17日の名古屋高裁判決は、平和的生存権についてとても重要な考え方を示しています。

「このような平和的生存権は、現代において憲法の保障する基本的人権が平和の基盤なしには存立し得ないことからして、全ての基本的人権の基礎にあってその享有を可能ならしめる基底的権利であるということができ、単に憲法の基本的精神や理念を表明したに留まるものではない。法規範性を有するというべき憲法前文が上記のとおり『平和のうちに生存する権利』を名言している上に、憲法9条が国の行為の側から客観的制度として戦争放棄や戦力不保持を規定し、さらに、人格権を規定する憲法13条をはじめ、憲法第3章が個別的な基本的人権を規定していることからすれば、平和的生存権は、憲法上の法的な権利として認められるべきである。そして、この平和的生存権は、局面に応じて自由権的、社会権的又は参政権的な態様をもって表れる複合的な権利ということができ、裁判所に対してその保護・救済を求め法的強制措置の発動を請求し得るという意味における具体的権利性が肯定される場合があるということができる。例えば、憲法9条に違反する国の行為、すなわち戦争の遂行、武力の行使等や、戦争の準備行為等によって、個人の生命、自由が侵害され又は侵害の危機にさらされ、あるいは、現実的な戦争等による被害や恐怖にさらされるような場合、また、憲法9条に違反する戟争の遂行等への加担・協力を強制されるような場合には、平和的生存権の主として自由権的な態様の表れとして、裁判所に対し当該違憲行為の差止請求や損害賠償請求等の方法により救済を求めることができる場合があると解することができ、その限りでは平和的生存権に具体的権利性がある。
 なお、「平和」が抽象的概念であることや、平和の到達点及び達成する手段・方法も多岐多様であること等を根拠に、平和的生存権の権利性や、具体的権利性の可能性を否定する見解があるが、憲法上の概念はおよそ抽象的なものであって、解釈によってそれが充填されていくものであること、例えば「自由」や「平等」ですら、その達成手段や方法は多岐多様というべきであることからすれば、ひとり平和的生存権のみ、平和概念の抽象性等のためにその法的権利性や具体的権利性の可能性が否定されなければならない理由はないというべきである。」

 憲法が保障する基本的人権と戦争との関係を素直に考えて行くならば、まさしく、そのとおりです。
 ネルソンさんが戦争の本質を訴えられました。品川さんが戦争は全てを動員するとおっしゃった。そういった基本的人権をないがしろにする戦争の本質を正面から受け止めるならば、この名古屋高裁の判旨は、余りに当たり前のことではあるのですが、その当たり前がなかなか認められない現実があります。様々な利害が絡み合うためです。
 しかし、司法は、そういった利害とは無縁のところで、率直な正義を語って欲しいものだと思うのです。
 名古屋高裁判決は、裁判官が本来の役割を果たしたという意味でも、本当に素晴らしい判決だとしみじみ思います。

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2008年4月19日 (土)

名古屋高裁判決

名古屋高裁平成20年4月17日判決

 原告の訴えに正面から答えた素晴らしい判決でした。→判決全文

 日本の裁判所は憲法判断を回避したがる傾向があまりに強い。あきれるほどに。司法の役割の放棄と言われることさえあります。
 そういう中、敢えて「平和的生存権」の具体的権利性を確認し、政府が国会にも国民にもイラク戦争の実態を明らかにしないことを痛烈に批判し、イラクの実態を丁寧に認定した上で、航空自衛隊の輸送について「少なくとも多国籍軍の武装兵員をバクダッドへ空輸するものについて」「他国による武力行使と一体化した行動」「自らも武力の行使を行ったと評価を受けざるを得ない行動」と判決に書き込んだ裁判官に敬服します。
 また、ここまで訴訟を維持し判決を勝ち取った弁護団の尽力には頭が下がる思いです。

 どこの新聞社だか忘れましたが、この判決を受け、イラクの実態があまりにも伝わっていないことの問題を指摘していましたが、本当にそうだと思いますし、この判決が、日本における情報の乏しさ(日本政府の秘密主義)を改めて浮き彫りにしたと思います。裁判官は、この判決を通して、イラクにおけるすさまじい戦闘の一端でもいいから明らかにしたいと思ったのではないでしょうか。

 判旨の一部ですが、以下に要約しておきます(正確さを犠牲にして数字を拾っています)。

  • WHO発表 死亡したイラク人最大22万3000人
  • 英国の臨床医学誌ランセット発表 死者が65万人を超える旨の考察
  • NGO「イラク・ボディ・カウント」発表 平成19年民間人犠牲者約2万4000人
  • イラク人約400万人が家を追われたといわれている
  • アメリカ国防総省発表 アメリカ軍の死亡者約4000人
  • アメリカのイラク関連の歳出はベトナム戦争の戦費を上回ったといわれている

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