憲法全般

2008年1月24日 (木)

品川正治さん講演会

 以前、ご紹介したことのある品川正治さんが福井へ来てくださるそうです。

 あの拍手の鳴りやまなかった感動のお話をまた直接聞くことができるとは・・・。
 嬉しくて仕方ありません。

 演題:9条がつくる21世紀日本のかたち
 日時:2008年3月15日午後2時~
 場所:国際交流会館多目的ホール
 主催:「九条実現」草の根の会
 後援:福井弁護士9条の会
 参加費:500円

 私は、日弁連のシンポジウムで品川さんのお話をお聞きし、とても感動しました。その感動は、自分の内にだけにとどめておけず、あちこちのメーリングリストで書かせてもらいました。そうしたところ、それを見て下さった草の根の会の会員の方が、品川さんのお話を直接お聞きしたいと、この企画をたててくださったのです。
 私としては、これほどありがたいことはありません。その上、きっかけをつくったんだからと、簡単なお誘いの言葉も書かせて頂きました。

Sinagawa

 多くの人が足を運んでくれるといいと思っています。

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2007年9月13日 (木)

安倍総理辞任報道について

 安倍氏の辞任の報については、様々な情報が飛び交っている。
 しかし、次の総理大臣が誰になるのかで盛り上げているテレビ番組が目立ち、だんだんあきれてくる。

 忘れてはいけない。安倍氏を総理大臣にしたのは、自民党だ。そんな自民党内部での次期総裁=総理大臣の議論をそんなに大きく取り上げていいのか。国民の意識と大きくかけ離れた話をしているという自覚はないのか。
 安倍氏の無責任さは、イコール自民党の無責任でもある。また、小泉→安倍と続いた新自由主義=弱肉強食路線は、自民党全体が承認してここまで来た。
 その路線に対して、国民がノーを突きつけたのが参議院選挙だったし、安倍氏は、テロ特措法による給油が国益なのだと最後まで未練がましく主張していたけど、国民がこれを支持していないことは世論調査によっても明らかになって来ている。

 今の衆議院の政治地図は、小泉氏の時代、まだ弱肉強食路線の本質が国民に見えていない時代に行われた選挙によるものである。今最も国民意思に近いのは、言うまでもなく、参議院の状況である。

 そのことを踏まえた議論を横におき、あるいは導入部分で少しだけ議論し、自民党内の首のすげ替えに競馬の本命・対抗を予想するがごとく騒いでいるようなワイドショー番組は、いい加減にしてもらいたいものだ。

 国民の立場からすれば、「今こそ、衆議院を解散して民意を問え!」というのが筋のはずである。
 ついでに言えば、こんな無責任な総理大臣の下で、国民の多数の意思を踏みにじって、強行採決につぐ強行採決によって成立させられた数多くの憲法違反の法律を見直すべきである!!と言いたい。
 

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2007年9月11日 (火)

テロ特措法と安倍総理の決意?

 安倍総理の発言が話題になっている。
http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/kokkai/news/20070909ddm002010156000c.html

 この毎日新聞の記事によると、

「(インド洋での海上自衛隊の給油)活動継続が求められている。どういう法的担保にしていくかは工夫の余地がある。給油活動は日本の国際社会における責任だから、何とか果たさなければならない。民主党とできる限り話し合いをしたい。あらゆる可能性を考えていかねばならない。
 今行っている海上での給油活動が海上阻止活動の不可欠な要素になっているから、そこを何とか維持したい。新法を考えるということなら、どういう形にするかを政府・与党でよく考えていかねばならない。(給油活動継続は)対米というよりも対外的な公約で、それだけ私の責任は重たい。すべての力を出し切らなければならない。活動を継続するために総理として全力を傾ける。

と述べたとのことである。

 しかし、強い違和感を感じる。

 テロ特措法は、本来時限立法(施行後2年で効力を失うとされていた)であったはずである。それをずるずると延長してきたという経緯がある。今回だって、そのままにしておけば失効する(2年が6年に延長されて終了)だけの話である。逆に、さらに延長すれば、なんと4回目の延長ということになる。
 国際法と国内法との関係については、諸説があって一概には言えないが、現在の日本の通説的な考え方である二元説によれば、国際法は、国内法で認められるか国会での承認がなければ、効力を有しない。まして、安倍首相の言う「国際社会における責任」「対外的な公約」というあいまいなものを国会の承認もないままに軽々しく使っていいはずはない。
 法が元々時限立法であることからすると、十分な議論も行わずに多数の力を借りて、ずるずると延長してきたことの方が問題である。

 現在のアフガニスタンの状況について何も触れず、自衛隊が具体的にどのような給油活動を行っているか、その給油活動がどのような役割を果たしているのかについて何も触れず、抽象的あいまいな言葉で自己の信念を正当化しようとする意図だけが伝わってくるが、「国益」ということを言いたいのであれば、そのあたりの具体的な状況を説明せずして延長しようとなれば、議論の前提を欠くことになる。
 むしろ、自衛隊が給油活動を続けていること、そのことが知られるようになることこそが国益を損なうという議論がある。
 給油活動を続けるべきか、給油活動を停止すべきか、どちらが国益を損なう結果になるかについては、情報がきちんと国民に報告され、説明責任がきちんと果たされてはじめて意味のある議論ができる。情報を隠し続けながら言葉でごまかす国民を馬鹿にした政治はいい加減にやめて欲しい。

 しかも、安倍総理は、「海上自衛隊のインド洋での給油活動が継続できなければ退陣する意向を表明した」(http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/kokkai/news/20070910k0000e010109000c.html)そうなので、あくまでも自衛隊の海外における活動の是非を自らの最大の政治目標だとしたということになるのであろう。憲法改正を第1目標に掲げる安倍氏らしい選択である。

 これだけ、年金問題、政治とカネの問題、貧困の問題が指摘されている中で、依然として、憲法改正や自衛隊の活動の問題を最重点課題と考える感覚は、どういうんだろう。各種の世論調査や政府の調査で表れている国民生活の悪化(貧困化)、社会福祉制度の脆弱化こそが、国民の最大の関心事であると思う。日々の暮らしや将来の生活に不安を抱えている国民からすると、給油活動(しかも100億円を超える膨大な費用を使ってる)などのことより、安倍氏が政治生命を賭ける課題は別にあるだろうとしみじみ思う。

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2007年8月28日 (火)

「福井平和フェスタ2007」ご案内

Festa

 9月30日「輝け九条!市民がつくる福井平和フェスタ2007」が開催されます。福井県内の市民が集まって企画したもので、主催は、「輝け9条!市民がつくる福井平和フェスタ実行委員会」です(そのまんまですが(^^;)・・・)。

 福井駅前のAOSSAという福井市以外の方であっても比較的参加しやすい場所を選んでいます。

 8Fでは、香山リカさんの講演会などの大型企画が行われますし、6Fでは、フェスタに参加した市民が、それぞれ、小企画に工夫をこらしています。「被曝体験に学ぶ原爆の悲劇」「聞いて、話して、お話こんにちは-絵本・紙芝居の朗読-」「子ども向け映画上映」「すいとんの試食会」「フリーマーケット」など、おもしろそうなのがあります。他がおもしろくないというわけではないのです、決して。ただ、全部書くのが面倒なので省略しただけ。つまり、前記以外にもいろいろな企画があります。
 もちろん、福井弁護士9条の会のメンバーも参加をします。何をするかは当日のお楽しみです・・・。

 なお、入場は無料です。

 是非、是非、多くの方のご参加を!!

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2007年8月 6日 (月)

日弁連「憲法60周年記念シンポジウム」(2)・品川正治氏講演

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 7月22日に引き続き、日弁連「憲法60周年記念シンポジウム」の様子をご報告(紹介)します。

□ はじめ

 私が是非ご紹介しておきたいと思った品川正治さんの講演です。
 とにかく素晴らしく感動的な講演でした。

 私は、講演会が好きで、時間の許す限り出かけるようにしているのですが、「拍手の鳴りやまない」講演会は、初めてでした。

 それは、品川さんが、講演会で話をすること、聴衆に語りかけること、そのことに自分の命の意味を見つけようとされていて、そのことがひしひしと伝わって来るからではないでしょうか。しかし、これも所詮後から考えたものにすぎません。講演が終わって思わず拍手をした時には、ただただ感動し、その思いを拍手を続けることで表現したかっただけです。会場で拍手を止められなかった人たちは、それぞれの思いがあったんでしょうね。

 品川さんのご経歴です。東京大学法学部を卒業された後、日本興亜損害保険株式会社(旧日本火災)の社長、会長、経済同友会の副代表幹事・専務理事等を歴任され、現在でも、経済同友会の終身幹事の肩書をお持ちです。

 そして、お話をお聞きしていると、経済政策についてのご造詣が深いことを感じさせられる財界の方であることは間違いありません。しかし、最近は、自らの体験に基づく護憲の立場と新自由主義に対する批判的な立場から、全国各地で講演を行っていらっしゃいます。

(以下は、もちろん品川さんが7月21日に日弁連等が主催したシンポジウムで話された内容に基づいておりますが、あくまでも私のメモなどに基づくもので、趣旨を自分なりに理解して記述したつもりですが、感想・主観が入るのは当然で、品川さんの講演内容そのままでない箇所もあると思います。よって、記載に間違いがあれば、その責任は全て私にあることをお断りしておきます。品川さんのお話は、機会があれば、是非、直接聞いて下さい。)

□ 品川さんの戦争観

 品川さんの原点は、1924年(大正13年)生まれのいわゆる戦中派であり、実際に戦争を兵隊として体験されているところにあります。小学校に入った頃に満州事変、中学校に入った頃に日中戦争、高等学校に入った頃に太平洋戦争。迫撃砲の破片がまだ足に残っているとおっしゃっています。こうしてお聞きすると、正真正銘の戦中派とおっしゃる意味がよく分かります。

 第3高等学校2年生(注)で現役招集という形で入隊し、直ちに戦地に送られ、戦闘に参加されていますが、受験勉強を経て入った高等学校で非常なショックを受けたとおっしゃっています。「本当にあと2年しか生きておれない人間が学問をするとは一体どういうことなんだろう。みんな、全員が、2年以内に読み終えてしまいたいという本のリストを全部もっておりました」という状況。品川さん自身は、「死ぬまでに、あと2年の間に、カントの実践理性批判を読み終えて死にたい。・・原書で読んで死にたい。」そのように思われたそうです。
 まだ20歳にもなっていない青年時代に、死を現実のものと意識して生きていくということが、どういうことなのか、想像を絶しますが、私にとっては、壮絶な「戦争の現実」の告発でした。

 品川さんは、一浪、二浪の学生が次々と招集されて行く中で、当時、「国家が起こした戦争で国民の一人として、どう生き、どう死ぬのが正しいのか」を基本的な問題と捉えておられたが、後に、この問題の出し方自体が間違っていたと悟られる。
 「戦争というのは人間が起こすんです。天災とか地変ではございません。戦争を起こす人がおるから戦争になるんです。しかし同時に、それを許さないで止める努力ができるのも人間なんです。おまえはどっちなんだと、そういうのが私の基本的な戦争観としてはっきりと、後の60年間は私の座標軸として一度も揺らいでおりません。」

□ 戦争というもの

 高等学校2年で招集を受けた品川さんは、鳥取の連隊に入隊したそうです。その日、品川さんは、強いショックを受けたそうです。
 品川さんら現役入隊した約一〇〇名を最前列に並べ、連隊長は、ごく短い訓辞をしたそうです。
 「今日、入隊したこの男たちの顔をよく見ておけ。この男たちを殴った男は俺は切るぞ。この男たちは死にに行くんだ。わかったか。」
 軍隊に招集されるということは、生きて帰れない覚悟をして行くということ。だから、品川さんも、死を覚悟していた。だからこそ2年間でカントの実践理性批判を読み終えて死にたいと考えた。
 しかし、入隊したその日に「この男たちは死にに行くんだ」とはっきり言われれば、戦争・軍隊とは何であるかということを否応なく自覚させられるでしょう。凄まじい体験です。
 品川さんらは、そのお陰で、軍隊につきものの新兵いじめは全く受けず、2週間で前線に送られたそうです。
 なお、品川さんは、擲弾投手で、寝るときでも、体に12発の手榴弾を巻き付けていたそうで、殴られたりしなかったのは、そのせいでもあったと言われます。これもまたすごい話です。

□ 終戦と日本国憲法

 品川さんたちの戦闘軍が武装解除されたのは、11月。その後捕虜収容所でしばらく暮らし、翌5月に復員されたそうです。
 そのときのエピソードを2つお話し頂きました。

 1つは、捕虜収容所での話。陸軍士官学校を出たような将校などを中心に、署名運動が起きたそうです。将校らの主張は、日本政府が「終戦」と呼んだことに抗議をするもので、「敗戦をはっきり認めて、国力が充実すればこの恥は必ず雪いでみせるというのがこれからの日本民族の生き方ではないか」というものだったそうです。
 しかし、品川さんたち戦闘部隊だった人たちを中心に、それに対する激しい反対運動が起きたそうです。

「何を言っているんだ、300万の将兵を亡くし、1000万以上の中国人を殺し、最後には、一瞬にして広島、長崎で20万の命を失った。我々は終戦で結構だ。2度と戦争をしない国にするというのが我々のこれからの生き方なんだ。一体、あんたたちはどんな面下げて、これから、中国人、アジアの人たちと接しようとするのか。あれだけ他国を侵略して恥を雪ぐとは何事だ」

 大部分が終戦派ということでおさまったそうですが、品川さんは、サラリと、「血の雨が降りました」とおっしゃる。しかし、すさまじい論争だったことは想像できます。

 2は、復員の際の船内での出来事です。
 品川さんたちの部隊は、上陸の足止めをくっていたのだそうです。
 そのとき、ボロボロになった新聞が配られたそうです。それは、日本国憲法草案が発表された日の新聞だったのです。現在の日本国憲法の前文や9条そのままの草案だったそうです。

「その新聞を見て全員泣きました。よもや国家がそこまで踏み切ってくれるとは、我々は思っていなかったんです。これからの努力として、二度と戦争をしない国をどうつくらないといけないか、ということを考えておった。ところが、発表された憲法草案に、はっきりと陸海空軍は持たない、国の交戦権は認めない、そこまで書いている、ということを知って、これなら生きていける、これなら亡くなった戦友の魂も癒される。よくぞここまで思い切ってくれた。これならアジアに対する贖罪もできる。

 品川さんは、はじめて現憲法と出会ったその日を忘れられないとおっしゃいます。

□ 国民と支配政党との乖離

 戦争とは、人を殺すことであり、また自らも命をかけることであり、「勝つ」という戦争の最大の目的のために、あらゆる価値が、最も大切なはずの命さえも軽んじられるという現実を品川さんは体験されました。品川さんは、太平洋戦争が正しかったどうかという問題に対する結論は出されませんでしたが、「戦争はあらゆるものを動員する」という現実を直視され、その戦争の現実を出発点に考え、また、講演を聴きに来ている人々に考えて欲しいと訴えられる。命さえ捨てなければならない戦争において、それ以外の様々な人権が軽く扱われるのは当然だと。

 戦後、多くの国民が、日本国憲法を歓迎した。そのことは紛れもない事実。ところが、日本の支配政党と呼ばれる政党は、一度も、国民と二度と戦争をする国にはならないという決意をともにしていない。これほどに文化水準の高い国で、60年間、その状態が続いてきた。これも現実です。そういう中で、自衛隊ができ、有事立法ができ、特別措置法が次々とつくられ、米軍とのガイドラインも論議され、今や9条2項の旗はぼろぼろになってしまった。しかし、大事なのは、国民が、まだ旗竿を握って放していないということです。
 支配政党は、その国民が握った旗竿を放させてみせると言ってきているというわけです。

 9条2項の内容を持つ憲法を持っているのは、日本だけ。軍隊のある国、軍産複合体が経済を支配している国で憲法を改正して9条2項を持てといっても、今すぐには無理。しかし、21世紀は、国民が戦争を正面から問いただす世紀になるはず。9条2項の理念は、世界的に極めて重大な理念。紛争は起こるが、戦争にはしないというのが日本の憲法。日本が手放せば世界からその理念が消えてしまうという非常に重い理念=宝物。

□ 若い人へのメッセージ

 品川さんは、若い人たちに戦争を伝える際に、戦争に3つの定義を与えているとされます。

 1つは戦争ということになれば価値観が転倒してしまうよと。勝つためというのが最も高い価値を持って価値観の上位に来て、自由とか、人権、人類がこれだけ苦労して手に入れたそういう原理、その話は勝ってからだということになる。勝つためという価値観が一番前に出てしまうんだよ。一番大事な価値観だと、皆、思っておる命、それでさえ犠牲にして勝つという形になるんだよ。戦争というのはそういうものだよということを言います。

 もう1つは、戦争というのはすべてを動員するんだよと。なにも経済とか労働力とかいう問題だけではない。学問も動員するよ。人文科学も動員するよ。社会科学も動員するよ。戦争というのはそういうもんだよ。日本の場合にはそれこそ「豊葦原の瑞穂の国は」という形で神の国、神国史観、これが公式であっただけじゃなくて、それ以外の史観を唱えることができなかった。あのゲーテを生み、カントを生み、ヘーゲルを生み、ベートーベンを生んだドイツ民族というのは文明的には随分進んだ民族だというふうにはどなたでもお考えだと思うんです。そのドイツ民族をホロコーストと称してユダヤ民族を500万殺したんだよ。戦争というのはそういうもんなんだと。

 もう1つは普通の国のあり方としては三権分立といいますか、司法、行政、立法の三権分立はあたりまえの形として受け取られる。しかし、戦争ということになれば、その中心の権力の中に戦争を指導する部門というのがその中枢に座ってしまう、こういう国のあり方になってしまう、そういう話をします。

 若い人に向けられた品川さんのメッセージに感動します。

  

 

 ここまででも、力のこもった講演ですが、品川さんは、若い人へのメッセージに続けて、「ここで私は今日のもう一つの主題を申し上げます」とされ、「日本とアメリカとは価値観を共有している」とする最近の政界等の主張に対し、さらに力を込めて、反論されました。この日の講演の結論だと私は理解したのですが、「日本の国民の出番」に向けた品川さんのお話をご紹介します。

□ 「日本とアメリカが価値観を共有する」ことはありえない

 「アメリカは、その『戦争』をしている国であることを日本はもっと本気で考えるべきだ」と、物静かな品川さんが、少し声を張り上げて、おっしゃったのを忘れられません。
 平和憲法を持っている日本が、何故戦争をしているアメリカと価値観を共有できるのか、世界で原爆を落とした唯一の国であるアメリカと、その原爆を落とされた唯一の国である日本とが価値観を共有できるのか、この奇妙さ。何故違うと言えないのか。歴史をどう解釈したらいいのか。そんなことを沖縄の人に言えるのか。広島、長崎の人に言えるのか。

□ 国民の出番

 品川さんは、外交官だけの集まりの席で、日本とアメリカの価値観の違いについて、尋ねたそうです。「あなた達の力で日本とアメリカとは違うということを納得させることができますか」
 外交官の答えは、「できない」であったが、ものごとの本質をついた答えが、品川さんに返ってきました。それは「国民の力」でした。
 それができるのは日本国民だけ。国民の力だけ。国民投票で憲法9条をやめることに関しては、国民がノーと言ってしまえば、アメリカと日本は違うということを世界に宣言した格好になる。それは、単に日本のこれからのあり方だけの問題ではなく、世界史も変えるだけの大きなこと。それができるのは国民だけ。
 現役の方(外交官)からは拍手が起きたそうです。
 品川さんの締めくくりの言葉をなるべく正確に記しておきたいと思います。

 日本の国民の出番が来ました。アメリカの世界戦略を変えることができるのも,日本が「ノー」と言ってしまえば、世界2位の経済大国が資本主義のあり方もこれで行きますよという言い方を堂々としていけばそれでいいんじゃないか。日本の資本主義のやり方が間違っていたら、こんな世界2位になるはずはないんですよ。1人も外国人を主権の発動として殺さず、軍産複合体を持たないで世界2位の経済規模を築き上げた日本というのは自信を持っていいわけなんです。おかしいと思うことに関してはおかしいとはっきり言えばいいんです。しかし、それが言えるのは国民だけだという格好になったんです。国民の出番が来たということを、是非、みなさん方にお訴えして、みなさん方のこれからの憲法問題のみならず、この国のあり方、世界のあり方に関して俺は傍観者じゃないという立場になったんだ、本当にめずらしいくらい日本の国民の行動が世界史全体を変えるようなこんな時期というのは今までの歴史上は私は知らないですね。私は83まで生きながらえて本当によかったというのを率直に感じております。こういう時期に巡り合わして、しかし、それがノーという形を見るまで私が活動できるかどうかは、もう無理だろうと思いながら、しかし、今こそ訴えないと、この訴えるべき時期を自分が荏苒と過ごしたということを、これは一生、最後の悔いになってしまうんじゃないかと思って、みなさん方にこういう形で、もっと冷静に本当は話をすべきことなんでしょうけれども、私の訴えとしてみなさん方に今日はお話しした次第でございます。どうもご静聴ありがとうございました。

* 品川さんのお話は、資本主義のあり方にも及び、この点でも日米の価値観の共有を前提とした政策について厳しい批判をされています。私のこの報告は、私の力量不足のため、あるいは論点を絞って分かりやすくするため、憲法9条の問題に絞った内容になっています。その点で、品川さんの真意を十分にお伝えしきれていないことを危惧します。ただ、品川さんの思いは何とかお伝えできたのかと思います。

* なお、日弁連のシンポではないのですが、コメントをくださった金原徹雄弁護士が、九条の会・わかやまのホームページに、「九条の会・わかやま」と「憲法9条を守る和歌山弁護士の会」の共催で開催された「品川正治氏講演会『戦争・人間・憲法九条』」での品川さんの講演録の全文反訳を掲載されていますので、ご参照下さい。資本主義のあり方の問題についての品川さんのお考えをご理解頂けるものと思います。

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2007年7月22日 (日)

日弁連「憲法60周年記念シンポジウム」

2  7月1日の記事でも書きましたが、7月21日、弁護士会館2階講堂クレオで、日弁連は、「憲法60周年記念シンポジウム・憲法改正と人権・平和のゆくえ・パートⅡ イラク戦争から何を学ぶか」を開催しました。

 目玉の1つは、品川正治さんの講演です。
 目玉のもう1つは、西谷文和さんの「イラク 戦場からの告発」です。
 そして、目玉の3つ目は、愛敬浩二氏、浅井基文氏、西谷文和氏、田巻紘子氏らによる大討論会だったのです。

 まず、その1つである。西谷文和さんの撮影した映像を中心にまとめたDVDをご紹介しておきます。

 シンポジウムの冒頭に会場で流したDVDでもあるのですが、これは・・・。イラクの人たちは、イラクで生まれた子どもたちは、それだけの理由で、何故これだけひどい目に遭わなければいけないのだろう。この実態は、無差別殺戮以外の何ものでもない。あまりにもひどい。

 ある子供は、クラスター爆弾の不発弾をサッカーのつもりで蹴飛ばして手足を奪われた。劣化ウラン弾による環境破壊によってガンに冒され、生まれつき目が見えない子供、脳がない状態で生まれてきた子供、生まれつき皮膚ガンに侵されていた子供等々。
 テロの恐怖のために銃を乱射するアメリカ兵に殺され、あるいは傷ついたイラクの人たち。
 正視するのが辛い映像が続くが、西谷さんの解説付で、比較的冷静に見ることができた。

 しかし、

 「これはアメリカによるテロではないのか」

 このような感想を持った。

 劣化ウラン弾は、原発から出た使用済ウラン=核廃棄物のリサイクルであるため、比較的安価に作ることができるそうだ。しかも、戦車をも攻撃できる強い能力を持つそうだ。しかし、その使用が相手国の一般の国民に長期にわたる深刻な被害を与えることを何とも思わないということなのか。それが戦争だということになるのか。
 もしこれが「テロ」と解釈されるのであれば、将来にわたる大量殺人行為ではないか。

 クラスター爆弾は、親爆弾を空中で爆発させて大量の子爆弾を地上にばらまいて破裂させるという大量殺戮兵器な訳だが、不発弾が意図的に作られているという恐ろしい事実を教えられた。子爆弾の一部にパラシュートを付けて落下させ、地上に緩やかに落下させる結果、爆発せずに不発弾となる。その結果、地上には多くの不発弾が今も存在し、警戒心の薄い子どもたちが被害に遭っている現実があるのだ。
 こんなこと、同じ人間として許せるようなことではない。

 そして、平和主義憲法を持ちながら、その理想を世界に向けて発信しようとする努力を怠り続け、アメリカの起こした「違法な」暴力行為にいつまでも加担し続ける日本とは、一体なんなんだ。

* テロ=テロリズムとは、「一定の政治目的を実現するために暗殺・暴行などの手段を行使することを認める主義、およびそれに基づく暴力の行使。」とされている。(大辞林より)

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2007年7月 1日 (日)

日弁連シンポジウムと品川正治氏講演(予定)

◇ 日弁連(日本弁護士連合会)がシンポジウムを予定しています。

日時:7月21日(土)午後1時~
場所:弁護士会館2階講堂クレオ
テーマなど:「憲法改正と人権・平和のゆくえ」
          ~パートⅡ イラク戦争から何を学ぶか~

 これは、憲法60年記念シンポジウムの第2弾で、その講演者として、品川正治氏をお招きすることになっています。

◇ 品川正治氏インタビュー記事

 私は、担当委員会である憲法委員会に所属しているのですが、そのMLで、1人の委員が、品川氏のインタビュー記事を紹介してくれました。
 すぐにその雑誌(「経済」7月号)を書店に注文して読むことにしたのはいうまでもありません(勉強熱心ですから(^^;))。

 財界の中心にあった品川氏が何を言うのかという揶揄に近い好奇心があったのは事実です。品川氏は、経済同友会の終身幹事の肩書をお持ちです。経済同友会が改憲推進の立場を鮮明にしてきたことも広く知られています。私がそういう偏見を持つのも無理はありません(開き直ってます(^^;))。

 しかし、一読して、私の認識が間違っていたことが分かり反省しました(根が単純なので、すぐ反省します)。さらに、肩書などで偏見をもって人を評価することの愚かしさを自覚しました。私たちのように戦争を経験していない世代には到底語れない実体験に基づいた信念が品川氏の言葉にはありました。重みが違うのです。素直にその言葉に耳を傾けてみたいと思い、再読しました。

 さらに、ネット検索してみると、品川氏は、以前から、講演会などで、自らの体験とそれに基づく考えを発信し続けておられたことも分かりました。単に私が知らなかっただけということが分かり、ますます恥ずかしい思いにかられました。

 品川氏の言葉は、どれもこれも重いし、とても要約できる内容ではありません。下手な要約は、品川氏の真意を曲げます。結局のところ、前記の雑誌記事を直接読むしかないし、品川氏のお名前で検索すると、講演録を拝見することもできるので、そっちで読んでもらうしかありません。

 以下は、自分のためのメモのようなものです。記しておきます。
 戦争の本質を体験された品川氏であるからこそ、価値観を転倒してしまう戦争の怖さ、常時戦争をしている国であるアメリカとの「価値観の共有」などとんでもないことを実感を込めて話されるのだと思います。

 戦争になれば、人類が勝ち取ってきた自由や人権という尊重すべき価値よりも、「勝つため」という価値が優先してしまう。戦争は価値観を転倒してしまう。このことを嫌というほど経験したわけです。

 今は憲法改定論議を一番してはいけない時期だと思うのは、アメリカが現に戦争状態にあるからです。・・・今言ったとおり戦時国家は、すべてを動員します。アメリカは、もちろん同盟国日本を戦争に動員しよう、そのためには「戦争をしない」という憲法を変えようとしています。その流れを止めるために、私が大事だと考えているのは、「日本の価値観とアメリカの価値観は違う」という視点です。

 「日本とアメリカの価値観は違う」という意味は、日本は戦争をしない国だと憲法で決めている国であり、一方、アメリカは常時戦争をしていて、現在も戦争をしている国であるということです。

 歴史的に言えば、世界で原爆を落とした国はアメリカだけで、落とされた国は日本だけしかありません。その二つの国の価値観が一緒だと言ってしまったら、世界の歴史の認識が成り立たなくなってしまう。日米が価値観を共有しているという見方で政治、経済を運営していこうとすれば、根本的な間違いではないのか。

 日本は平和憲法で「絶対戦争はしません」「世界には敵がおりません」と宣言している国です。一方、アメリカは、他の国を「悪の枢軸」「ならず者国家」と名指しして、戦争を遂行している国です。この両国の価値親が一緒だと言ってしまったら、すべてを見誤りますよ、ということです。

 「アメリカと価値観を共有する」という理屈で、アメリカとの軍事同盟をさらに強化していく道をとれば、日本の軍備はいくら増やしても足りないことになる。そんな形は、国家のあり方として、私は最も拙劣だと思います。

 「国の価値観が違います」という立場は、ヨーロッパの諸国はアメリカに対して常に言っていることです。

 今、日本はアメリカの価値観を一番問わない国になっていますが、本当は一番、価値観が違うはずではないのか。そして、この点を問うことは、世界平和のためにもプラスではないかと思います。世界中で、武力によって解決できない問題というのは山ほどあります。世界中にたくさんある紛争の種を、戦争にしないというのが、大国の役割ではないですか。日本は、平和憲法を持つ国として、その役割を果たせる国だと思うのです。

 品川氏の発言は、「平和憲法をもっている国にふさわしい経済とはどういうものか」にも及んでいます。間違った方向に歩もうとしている日本への警鐘だと思います。
 戦争は反対であるが、北朝鮮や中国の脅威から自国を守るための軍隊は必要だとおっしゃる方の発想は、平和を守るための手段を戦争だけに置くところから来るように思います。この東アジア地域全体の平和を日本しかできない方法で守っていくことこそが、最も有効なしかも日本にふさわしい自国を守る方法なのではないかと思うのですが、どうなのでしょうか。
 また、日本の安全・平和の確保を日本国内でだけ考えていてはいけないとも思います。アジア全体の安全・平和がなければ日本の安全・平和もないと思うのですが、どうなのでしょうか。
 品川氏の発言を読みながら、そのようなことを考えました。

 私は、日本経済が次の時代に道を開くための大きなポイントは、「成長の呪縛」からの脱却にあると思います。
 達成された「経済大国」は「成長至上主義」の産物であり、もはや日本は「成長の呪縛」から脱すべき時代に入ったと思います。経済を成長率で評価する時代は終わり、これからは経済は国民生活に従属するという視点が必要です。

 世界トップクラスの経済力をもつ日本において、なぜ国民が社会保障の削減に脅え、年間三万九千の自殺者を出しているのでしょうか。多くの人が正規の職に就けず、教育問題や格差の拡大に悩まなければならないのでしょうか。経済の成長率を発展の尺度として、企業の成長を支えることが最大の国家政策だと考えるのはもはや誤りです。国家目標を、これからは生活や労働への不安がなく人々が安心して暮らせる社会の実現におくべきです。日本の経済力はそれを実現できる水準にあるはずです。

 そして、この経済の尺度を切り換えることは、現在の国際環境をみても、大変重要になっていると思います。
 21世紀の大きな課題は、世界中から戦争や貧困、飢餓、疫病を減らし、地球環境を保全していくことです。そのために戦争という手段では、解決できない問題はたくさんあります。日本は、平和的手段で仕事をしますよという立場を積極的に押し出すべきだと思います。

 私たちが直面している、このヤマ場は、日本国内の政治問題だけではありません。世界史を変える大きなヤマ場なわけです。
 これから世界はアメリカ型の経済、国家の形しかないという方向で進んでいくのか。もし、これだけの経済規模をもっている日本がアメリカ型と違う価値観を選択すると、はっきり世界に宣言できたら、世界史の進路は変わってくると思います。だから憲法問題は国内的な問題、政局の問題に矮小化すべきではなく、もっと大きな世界史的な意味をもつと考えて一向に差し支えないと思います。

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2006年9月22日 (金)

国旗国歌強制違法判決(東京地裁)について

  主    文

1 原告らが、被告都教委に対し、「入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱の実施について(通達)」に基づく校長の職務命令に基づき、上記原告らが勤務する学校の入学式、卒業式等の式典会場において、会場の指定された席で国旗に向かって起立し、国歌を斉唱する義務のないことを確認する。
2 被告都教委は、原告らに対し、本件通達に基づく校長の職務命令に基づき、上記原告らが勤務する学校の入学式、卒業式等の式典会場において、会場の指定された席で国旗に向かって起立しないこと及び国歌を斉唱しないことを理由として、いかなる処分もしてはならない。
3 原告らが、被告都教委に対し、本件通達に基づく校長の職務命令に基づき、上記原告らが勤務する学校の入学式、卒業式等の式典の国歌斉唱の際に、ピアノ伴奏義務のないことを確認する。
4 被告都教委は、原告らに対し、本件通達に基づく校長の職務命令に基づき、上記原告らが勤務する学校の入学式、卒業式等の式典の国歌斉唱の際にピアノ伴奏をしないことを理由として、いかなる処分もしてはならない。
5 被告都は、原告らに対し、各3万円及びこれに対する平成15年10月23日から支払済まで年5%の割合による金員を支払え。
(一部要約)(要約のために「原告ら」としているが判旨は原告番号による特定あり)

 以上が、「国歌斉唱義務不存在確認等請求事件」について、2006年9月21日午後1時30分に東京地裁が言い渡した判決主文の要旨である。

 憲法が保障する国民の基本的人権=「思想・良心の自由」「表現の自由」等からすれば、これを行政権力が侵害し将来もそのおそれが高い以上、その回復及び将来における侵害の予防を命じるのは、裁判所として当然のことで、裁判所は、当たり前の仕事をしただけのことである。この当たり前の判決が、画期的と評価されなければならないところに、我が国の司法の現状がある。

 改めて言うまでもないが、「思想・良心の自由」等のいわゆる「精神的自由権」は、国民の基本的人権の中でも、とりわけ憲法上最大の尊重を要する(優越的地位)。このことは、憲法を学んだ人なら誰でも知っているし、最高裁判所も明確に認めるところである。

 ところが、今の我が国の大臣のレベルをどのように考えればよいのだろうか?
 「予想もしていなかった」とコメントを出した(テレビで見てたのでこういう趣旨のことを述べていたとだけ言っておく・・・もっとひどいことを言っていた気がするが・・・)法務省、文科省のトップが、憲法の原則を知らないはずはない。この原則を知っていれば、今回の東京地裁の判決は、当然に予想の範囲内でなければならない。そう言いたくない気持が分からなくはないが、理論的には当然の帰結なのだから。
 要は、予測の範囲内であったにもかかわらず、「意外だ」とか「予想もしていなかった」と述べ、国民に向けて、あの判決はおかしな判決、特別な判決だと印象づけたいということなのだろう。
 騙されてはいけない。
 東京地裁の判決は、当然の当たり前の判決なのだ。

(付記)
 「予防訴訟の東京地裁判決に対し、判決をまったく理解できずに非難する連中が多いようです」と書かれた増田弁護士のブログには、小泉氏や杉浦法務大臣のコメントが引用されている(http://yaplog.jp/lawyaz-klub/archive/1641)。
 「今回の判決は,画期的ではあるが,恐らく,法学部生がこの問題について判決を書けと言われた場合,同じような趣旨の判決になるはずだ。つまり,憲法を素直に解釈すると国歌斉唱時に起立を強制されることなどありえない」と書かれた「情報流通促進計画 by ヤメ記者弁護士さん」のご意見(http://blog.goo.ne.jp/tokyodo-2005/e/2d4ea238903c8d478a1e5db043b447d9)に全く同感である。

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2006年9月14日 (木)

政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こる危険

 日本国憲法前文には、「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し」とある。

 戦争は、政府が宣戦布告をし、軍隊を出動させて始まる。戦争は、個々の国民が起こすものではなく、政府の行為によって始まるものである。国民は、それによって、否が応でも、戦争に巻き込まれる。攻撃を受けることによって物理的な意味で被害を受け、戦時体制に置かれて人権が制約されることによって精神的な意味でも多くの被害を受ける。戦争に反対すれば「非国民」と言われ、虐殺されることだってある。日本国民は、既にいやというほどそのような理不尽な状態を味わったし、それは日本国民だけではなかった。国民が望んでもいない戦争によって、一部権力者の思惑によって、戦争にかり出され亡くなった多くの若者がいる。

 その反省の上に、国連憲章も、日本国憲法もあるはず。政府は、国民の人権を守るために、戦争以外の外交手段を駆使して国際紛争を解決する義務を負っていることは、いまさら言うまでもない、当然のことだろう。

 しかし、この国の政府は、この当たり前のことさえ実行せず、今「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こる」危険を増加させている。この単純なことを分からないはずはないのだから、分かっていて敢えてやっている。この国を戦争をする国(「できる」ではない)に変えようとしているからである。多くの人がそのことを感じ始めているのではないだろうか。

 純情きらりが戦争の本質を描こうとしてきたことは既述のとおりだが、さらに、人間魚雷回天の悲劇を描いた横山秀夫の「出口のない海」が山田洋次の脚本によって映画化され、9月16日封切りされる(監督:佐々部清)。http://www.deguchi-movie.jp/

 他方、吉永小百合が、山田洋次監督の「母(かあ)べえ」で主演することが、報じられた(http://www.nikkansports.com/entertainment/cinema/p-et-tp1-20060906-86023.html)。
 吉永は「夢のようです。昨年の夏、山田監督からこの作品のお話をいただいた時、何としても出演したいと思いました」と、来年1月の撮影開始を心持ちにしている。原爆詩朗読をライフワークとして続けるなど平和運動にも熱心に取り組んでいる。戦争が家族の幸せを奪う悲劇を描く今回の作品には思い入れも強く、「暗黒の時代を懸命に生きた母べえを深く表現できるように全力を尽くします」と話している。

 多くの心ある人が、今の日本がというより今の政府が国民を連れて行こうとしている方向に危機を感じ、何とか戦争が国民に何をもたらすのかを描こうとしているように思える。私たち一人一人が、それぞれの場所で、戦争の本質を正面から見据え、考えたこと感じたことを表現し行動に移せば、決して遅くはないと心底思う。

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2006年6月14日 (水)

人類普遍の原理

 日本国憲法前文が言及する「人類普遍の原理」。

「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法はかかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。 」

 「人類普遍の原理」と言われても、これまで、当然のこととして、余り深く考えたことがなかった。
 広辞苑には、普遍とは、「宇宙や世界の全体について言えること」とある。原理は、「認識または行為の根本法則」だから、「世界の全体について言える根本法則」という意味になる。
 一国の憲法が、何故、「普遍の原理」=「世界の全体について言える根本法則」を敢えて宣言するのか、そこに何が込められているのか、改めて考えてみる必要があるのではないだろうか。
 普遍の原理という以上、日本国憲法が制定された当時、既に国際的に認められた根本法則が存在したということを意味する。

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